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社会的養護の下で育ったパラアスリートの挑戦!

小学校4年生の時に、初めてパラスポーツと出会うそのきっかけは、あるパラ卓球選手との出会いだった。 しかし、施設に入っていたため、ルール上習い事に行くということができなかった。そのため施設の職員さんに卓球の相手をしてもらい、パラ卓球にのめり込みいつしかパラリンピックで金メダルを取ると言う目標掲げ、練習に打ち込む。小学校6年生の頃には、自分の熱意が相手を動かし地域の卓球クラブに所属することとなる。 中学生になると、全国障害者スポーツ大会の県代表選手選考会をかけ選考会に出場する 兵庫県障害者のじぎくスポーツ大会卓球部門、車椅子の部クラス10金メダル3連覇兵庫県選手団代表選手強化練習会参加。この時からライバルとして共に戦った選手が注目し始める。自分がいつもライバル選手に負け続けた。パラ卓球で全国障害者スポーツ大会に行く事はなかった。中学生の時にある天気が訪れる全盲の短距離選手の伴走努めるガイドランナーの講演を聞く。その時陸上の面白さ風を切って走る素晴らしさを耳にすることとなる。 卓球を続けていたが、人間関係を悪くしてしまい、またコーチとの信頼関係を崩してしまい、卓球から一線を退く。中学3年の時に、社会的養護に理解があり、また自身もハンドボールの選手として活躍した経験があり、学校教諭としての経験がある指導者と出会う。そこから陸上競技に本格的に取り込むようになる。 その時言われた言葉あなたのようなバックグラウンドを抱えた人と一緒にパラリンピックを目指したらどう?必ずわかってくれる人はいるから。このコーチとの出会いが、自分の競技人生を大きく変えることとなる。陸上するまで筋力がなかった。陸上きっかけに肉体改造することとなる。陸上始めてすぐの50メートルのタイムが25秒。しかし3ヶ月主に上半身の筋力を高めると3ヶ月後が50メートル21秒そして半年後には18秒を出せる位までスピードが向上。トレーニング続けて絶対にあきらめない。最後までやり通すと言うことを学ぶ。 中学3年の秋に初めて体験型のノーマライゼーション、陸上競技スポーツ大会に出場し初めて風を切って走ると言う感覚を味わう。50メートル21秒 この頃から、陸上競技でパラリンピックを目指すと言う目標に取り組む。高校1年生で出場した兵庫県障害者のじぎくスポーツ大会、陸上競技、車椅子使用者の部ではクラス16で50メートル21秒、00で金メダル。そこから同クラス4連覇しかし、なかなか代表選手には選ばれなかった。 神戸市障害者スポーツ大会、1500メートル金メダル200メートル銀メダル 兵庫県障害者スポーツ大会50メートル金メダルスラローム金メダル神戸市障害者スポーツ大会800メートル金メダル200メートル銀メダル 神戸市障害者ふれあいロードレース、車椅子使用者の分2キロ銀メダル等 また、一般のマラソン大会にも参加し、みっきぃふれあいマラソンでは5キロ。車椅子で見事完走。 ​ また、パラスポーツ絵画展では、神戸新聞社賞二回神戸市長賞一回兵庫県パラスポーツ協議会長賞一回 学校卒業した後も、自ら立ち上げたACグラシアスから出場しメダルを受賞するも全国障害者スポーツ大会には選ばれなかった。 2023年6月大きく転倒し、非骨折性頸椎損傷と診断される。一時期、車椅子も全く自分で操作できなくなり、競技を離れることとなる。 しかし、アスリートとしての夢をあきらめることができなかった。麻痺は残った。また自分と同じようなバックグラウンドを持った方と出会うことで、再びアスリートへの道を歩むことを決意する。 ​ パラリンピックで金メダルを取る夢を正夢に変えて。 多母髪大気の第二の競技人生がここからスタートする。

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Supporting Staff

​岸 信

Kishi Makoto

(コンサルタント)

多母髪大気の活動に強く共感し、活動の場の提供や情報発信戦略アドバイス等をして、多母髪大気の新規事業立ち上げに尽力している。

 Matsuo Hideyuki

​松尾 秀行

(顧問)

この多母髪大気公式 WEB SITEの制作・更新・保守を担当しており、多母髪大気の社会人としての教育・アドバイスも兼任している。

 Oono Kinari

​大野 来斉

(マネージャー))

デザイナーとして多母髪大気のロゴ・グッズの発案を担当している傍ら、多母髪大気の活動の移動サポートも行っている。また同行援護従事者でもある。

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